礼拝メッセージ

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2012年1月8日 加藤真喜男師  説教「愛のうちに建てられる教会」エペソ4章13〜16

こんな話を聞いた事があります。ある教会の牧師がある国の先生に、「あなたの教会を見せて頂きたいのですが、いつ伺えば見れますか?」こう尋ねられました。それで今時間がありますので、すぐでも良いですよ。と答えたそうです。しかし、この外国の牧師は、建物の事ではなく、集われている一人一人の信徒と教会の雰囲気や霊的な状態を見たいと言われていたのでした。ちょっとした食い違いのエピソードですが、このやりとりは、教会とは何かを考えさせられます。

私達は教会というと建物を考えてしまう事が多いのではないでしょうか?しかし、大切なのは、そこに集っている教会員がどの様に神の前に進み出ているかが大切であると言えましょう。

 

 本年度は教会について、一年を通して共に考えたいと思うのです。

 

今朝お読みしたエペソ人への手紙は、使徒パウロがエペソの教会にあてて書いた手紙ですが、教会について学ぶのにもってこいの書簡です。1章の終りにはこのようにあります。

 

123 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

 

教会とは、主ご自身が満ちておられるところだというのです。これは良く考えると、すごいことです。私達が集っている教会とは、単にクリスチャンが集っているのではなく、実はキリストの体であり、主御自身が満ちている所である、そんな所に私達は導かれていると言うのです。感謝しつつ、また喜んで集いたいものです。

 

パウロは教会が、単にキリストの体であるだけではなく、目指すべき目標があるというのです。

 

4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

 

教会が目指すべくは、私たちがみな、完全におとなになって、キリストの身たけに達するという事でした。教会に来て、洗礼を受けたら、あるいは信仰告白をしたら、後はどうしたら良いのか、そこで迷われたり、不安を感じられる方がおられるかもしれません。何故なら私達が知らない領域だからです。

教会の指導もありますが、それと共にキリストは、信じる者には神の御霊、聖霊が与えられて、聖霊によって導いて下さると言っています。ヨハネ14章には、キリストが昇天された後、真理の御霊が送られ、私達が正しく歩むように導かれる事が書かれています。

キリストの昇天以後、私たちには真理の御霊が送られるようになったのです。それは、私達が成長し、この信仰の一致と神の御子に関する知識の一致に達し、完全に大人になるための助け主として送られたのです。

そうは言っても、私達はこの私たちの中に与えられている真理の御霊の声が聞こえないことがあります。それは、私達が自分の興味のあることで一杯になっていて、心が他の事で一杯になっている時です。また、聞こえても聞き従わずに、自我に聞き従うことが多くあります。

どちらも、本来我々が歩む道ではありませんでした。そうではなく御霊は、キリスト者を信仰の一致と、御子に関する知識の一致に導いて下さるのです。私たちが完全に大人になってキリストの身たけに達するためには、信仰の一致と、御子に関する知識との一致に達することが欠かせないのです。

 

しかし、ある人は、信仰の一致はもう既にしているのではないかと思うでしょう。教会に集うみんなが、イエス・キリストを主と信じているのだから、それで信仰の一致が与えられていると理解するのです。しかし、本当でしょうか?

キリスト者同士の行動や聖書理解を良く見て頂ければそうではない。むしろ信仰の不一致に気付くようになるでしょう。信仰生活には、たくさんの曖昧な部分があり、聖書で言われていなくても、自分が正しいと思っている事は沢山あるのです。そして、それがお互いを裁きあう事になるのです。

 人間は、信仰を持っても自我はしつこく残るのですから、完全な信仰には達していないのであります。ですからこの一致に達するためにと、一致を目指す目標としてパウロは言っているのです。

 

私は、子どもの頃から教会に行っており、聖書の主要な部分は教会学校で教えられて良く知っていました。しかし、人生に確かに伴われる神、また祈りを聞いておられる神を知ったのは、ずっと後の高校生の時でした。そして、聖書はとんでもなく、広くそして深いのです。そしてまだ入口に少し入っただけだと思っています。時々、そういう老牧師の話を聞きますが、もっともっと中に入っても、まだ入口に付近にしかいない事に気付くようであります。私もその様な鋭敏な心でいたいと思います。

 

御子が私に伴われる事、また、どれ程の事を御子がなされたかを理解するのは、具体的に自分の人生の中で確信し、理解して行く事が必要でした。しかし、そうなっていかないのなら知識だけの理解となってしまい、結局は神の御心からずれて不信仰に陥るのです。イエス様は、この地上におられた時、何度も弟子たちの不信仰を嘆かれました。

イエス様の目の前にて沢山の奇跡を見ても、不信仰は直らなかったのです。この不信仰が罪です。

 

不信仰は神の力を信じないのですから、神の力を知る理解を妨げるのです。私たちが一体どなたを信じているのか、だから、どう生きるのが良いのか、その一致をみことばから学んで深めることは、私たちが神の御力を体験して知り、成長させてくれるものです。

 

また、御子の知識に関する一致もほぼ同様な事を言っているでしょう。御子はこの世で何をされたか、また、その根拠は何処にあるのか、それら一つ一つが開かれていかない限り、聖書を知っているつもりになるかもしれませんが、実際は知るべき事を何も知らない事が多くあります。

聖書で言われている使命も、教理もまだまだ全くと言って良い位、説教できていません。だから、皆様もご自身でも学んでください。一生かかっても知りつくせないでしょうが、探求し続けられるのもまた幸いだと思うのです。ここまで知って感動し、でもまた新たな発見がある、そういう感動の連続だからです。

そうした御子に対する教理も、皆様がご自身で学んで頂いても良いでしょう。2月くらいからは、祈祷会で知的な部分に関しては学んで行こうと思います。この知識と信仰がそれぞれ、理解でき、自分のものとなっていく事も信仰と共に両輪の一つなのです。

 

これらの部分が成長したらどうなるでしょうか?

4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、

 

過去の歴史の中でも、間違った異端が沢山でてきました。新約聖書にも、使徒パウロと教会の中で戦う人々もいました。サタンは至るところで、キリスト者を欺こうとし、またクリスチャンとして歩む事を辞めさせようとするのです。

 今は時期悪いとか、疲れたから今日は教会に行くのを止めようとさせるでしょう。私達もそうしたくなる事があるかもしれません。けれども、それらは見破り易い策略です。

そうではなく、サタンはもっと巧妙に策略を練ります。ある時は、信頼できると思えるような人を使い、教会に行かなくても良いように見せたり、ある時は、声の大きい人を使って、教会を変な方向に持って行く事があります。バランスを欠いた、教理を教えこむ事によって、教会に来る人の信仰生活を弄ぶこともあるでしょう。

パウロは、サタンさえ光の御使いに変装する(Uコリ1114)と言っています。信頼している人、善良な人、牧師さえサタンは策略に用いることもあるのです。ですから、この事に対して、やはり私達は、聖書が何を言っているか理解し、聖書の知識においても大人になる必要があるのです。

イエス・キリストに対する知識、そしてその人格に対する信仰が、しっかりしていないのならば、容易に意見の強い人の言葉に流されるようになるでしょう。だから、この点においても13節において完全に大人になるようにと言っているのです。そうする事によって根の生えた信仰者となれるのです。

 

大人になった信仰者は、こうしたサタンの策略に揺るがされないというだけではなく、更に次のような積極的な部分が生まれて来ます。

 

4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

 

この信仰の一致と御子に対する知識の一致に導かれる中で、一人一人の聖徒は真理を語るようになります。この真理とは何でしょうか?私達が正しいと理解する事が真理なのでしょうか?

世の中には、真理がたくさんあるでしょう。しかし、沢山の嘘の中で、真理は一体なんであるか分からなくなってしまっていることもあります。ある人は自分の真理によって相手を傷つけないようとして、どんどんと自分が持っている真理を失っていくでしょう。

多くの人の中では、真理の基準は変わってしまうのです。それは自分の中に真理の基準があるからです。それに対して、聖書はエペソ421節で真理はイエスにあると明確にしています。

ところで、真理であるキリストの教えを理解して、それぞれ教会の中で語り出したら、教会はどうなるでしょうか?不思議かもしれませんが、信仰者同士がお互い裁きあうことになるでしょう?人は自分が出来ているかどうか別として、人に対しては厳しい目で見るのです。

それは信仰を持ったクリスチャンと言えども同じです。しかし、教会の中で裁きあう事ほど悲しいことはありません。この思いによってキリストの愛によって生きたいという思いは急激に冷え、冷たい雰囲気となるのです。

 

パウロはこの箇所で、ただ真理を語るとは言っていません。愛をもって真理を語ると言っているのです。それは何故でしょうか?聖書を持ってきて人を裁くように真理を語るのではなく、愛を持って真理を語る必要性を理解していたからでしょう。人が成長するためには、自分が見えていない部分を指摘してもらう必要があります。真理を真理として語られなければそれは見えないままで成長は望めません。

ですから、真理は語られなくてはいけないのです。そして必要なのは愛を持って真理を語ることなのです。この愛と、真理が両輪備えられる事が必要なのです。キリストを人格的に知り、そのキリストにつながり、愛を十分受ける中で愛を持って語るように導かれることなのです。だからこそ、教会が至るところで成長するのです。

そしてその一人の信仰者が整えられる中で、その部分は他の部分に影響を与えるのです。これこそ教会の醍醐味なのです。

 

4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

 

ところで、教会の中でこう思われがちなことなのですが、あの人が一人頑張っているから私は別に奉仕をやらなくて無い、任せ置こうとする姿です。また、あの人には能力があるから、あの人に頑張ってもらえば良いのだと言う人が時々おられます。

しかし、パウロは、教会に集う一人がとは言っていません。また、その力量に相応しく働くと言っています。これはどういうことかと言うと、キリストの体は、たった一人いなくなっただけでも、それは成長せず、キリストの身丈にも届かない、不完全な物になってしまうというのです。

私達一人一人が、神の前に呼び出され、救われたのは、一人一人があの人がいれば十分とか、あの人たちに委ねれば良いと言うためではありません。もちろん、出来ない事をやるとか、人の数十倍時間がかかる事を無理やりやることも違うでしょう。ここでいわれているのは、それぞれのタラントに応じて、出来る事をささげると言うことです。

キリストがここにおられる一人一人を救い、今教会に導いていて下さった特権は、特権としてあるでしょう。しかし、その特権は栄誉ある使命が与えられているのです。それぞれが、自分が出来る事を通して共にキリストの体を建て上げていくという使命があるのです。

 

新しく来られた方に笑顔であいさつすることも良いでしょう。長期で教会に来れていない人がいたのならば、手紙を書くことも出来るでしょう。心の痛んでいる人がいたら、その人の心の叫びを聞いてあげることもできるでしょう。自分がダメなら私に言ってくださるだけでも十分な奉仕です。祈れる人は、是非教会員の一人一人の名前とまた、まだ救われていない家族の名前をあげて祈って下さい。


 他の教会の方でしたが、いつも私たちの教会を覚えてお祈りして下さる姉妹がいました。その姉妹は昨年天に召されましたが、最後の一年ほどは寝たきりになり、痛み止めを使いながら痛みと戦う闘病生活をしておられました。
お電話をしたり訪問をするといつも、朝に夕に祈っていますよ、と言って下さいました。寝たきりでも、自分に出来ることを探して祈りという奉仕をしておられたこの姉妹に、私たちの教会は祈られ支えられていたのです。

 

働く力と言うと、何かをすることに目が行きます。それも必要です。しかし目に見えないけれども、その方の存在がなくてはならない一部になっているということをお互いにみことばから認めたいと思うのです。

教会は備えられたあらゆる結び目によってしっかりと組み合わされるとあります。パウロは同じ獄中書簡のコロサイ314節には、愛は結びの帯として完全なものです。とつづっています。

教会は、キリストの愛によって集められた人々が、キリストの愛によって、キリストの体を建て上げる所なのです。人を裁きあうのではなく、互いに愛し合いながら、このキリストが愛されている辰口キリスト教会を共に建て上げていきたいと思うのです。そしてその中心が教会全体が信仰と知識による一致へと導かれる事です。そして大人な教会となる事です。み国についた時、神に使命を果たしてよくやった忠実な僕たちよと言われる群でありたいと思うのです。

 

お祈りを捧げます。